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張 超(ちょう ちょう、? - 195年)は、中国後漢時代末期の武将・政治家。字は不明。兗州東平郡寿張県(山東省泰安市東平県)の人。実兄は張邈。同時代に活躍した河間郡の書家張超とは別人である。 == 正史の事跡 == === 事跡 === 広陵太守で、臧洪や袁綏といった名士を登用した。初平元年(190年)正月に、兄や他の諸侯と共に、董卓討伐の同盟(反董卓連合軍)に参加した。この時、諸侯同盟の宣誓者として臧洪を推薦した。臧洪もその大役を見事に果たした。 興平元年(194年)夏、陶謙を討つため徐州遠征に赴いた曹操の留守を狙って、陳宮や兄らと共謀し呂布を兗州牧に推戴して謀反を起こした。一時は、兗州のほとんどを制圧する程の勢いであった。 しかし翌2年(195年)春には、曹操が勢いを盛り返したため、呂布側は劣勢に追い込まれた。同年8月、張超は兄の命令で家族と共に雍丘に籠城し、曹操の猛攻撃にも懸命に防戦した。しかし同年12月、ついに雍丘が陥落したため張超は自殺に追い込まれた〔捕えられて処刑されたとの記述もある。〕。また、張邈・張超の三族も皆殺しにされたという。一方の兄は袁術に救援を求めにいく途中で、部下に殺害されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張超 (広陵太守)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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